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川上未映子さんの作品について [生活と意見]

一読者の指摘にはじまり、この数ヶ月にわたって津原泰水さんの公式ホームページ「aquapolis」の掲示板を主な舞台に議論が展開された、川上未映子さんの尾崎翠についてのコラム「尾崎翠 第九官界彷徨」における角秋勝治さんの「第七官界彷徨ー尾崎翠を探して」映画評からの盗作疑惑、および小説「わたくし率 イン 歯ー、または世界」における津原泰水さんの小説「黄昏抜歯」からのアイデア盗用疑惑ですが、アイデア盗用の被害者である津原さんが、状況証拠として第三者の固有名を含むかたちで川上未映子さんが津原さんのご著書『綺譚集』を読んでおられることを示唆する記事「宣告はつらい」を書かれました。

《これをユリイカ山本充は僕の目の前で、川上未映子に読むように勧めている。ましてや川上未映子はその前後に位置する『ペニス』と『ブラバン』を、おおやけに称賛している。「『綺譚集』だけ知りませんでした」は通らない。》(http://6300.teacup.com/osamun/bbs/t8/315

それを受けて、文芸評論家として表明しておくべきことを表明しておきたいと思います。

まずコラムにおける盗作疑惑ですが、

・川上未映子さんが「月刊songs」に掲載したコラムを加筆修正して2005年3月の日付で川上さんの公式ブログ「純粋非性批判」に転載したもの
http://www.mieko.jp/blog/2005/03/post.html

と、

・角秋勝治さんが2001年5月13日付「日本海新聞」に掲載した映画評をホームページ「尾崎翠フォーラム」に転載したもの
http://www.osaki-midori.gr.jp/_borders2/EIGA/3-EIGA/3-EIGA/HYORON.htm

を比較すればわかるように、川上さんは尾崎翠の小説「第七官界彷徨」の物語内容について誤った記述をしており、その記述が映画「第七官界彷徨ー尾崎翠を探して」内でアレンジされた小説「第七官界彷徨」について角秋さんが映画評で紹介されているものに語彙も内容も酷似しています。

これは明白な盗作であると同時に、尾崎翠の小説「第七官界彷徨」を読まずにそれを紹介している文章であり、わたしはこのような文章を原稿料が発生するものとして書いている書き手を文学者と見なす文学観をもっていません。ただし、この文章は川上さんが詩や小説を発表される以前のものであり、それ以降の文章がそのように書かれていない、盗用コラムは現在の川上さんとは別人のものである、と過去の文章についての謝罪あるいは釈明がなされれば、現在の川上さんにその文学観を適用することを覆すのに吝かではありません。

次に小説におけるアイデア盗用疑惑ですが、

・川上未映子さんが2007年に「早稲田文学」0号に発表されて、現在は講談社文庫に入っているもの

と、

・津原泰水さんが2002年に「小説現代」に発表されて改題の上2004年に刊行された短篇集『綺譚集』に収録され、現在は創元原推理文庫に入っているもの

の詳しい比較は津原さんご自身の承認を得ているものが、
http://wave.ap.teacup.com/radiodepart/
で読むことができます。

思考が脳ではなく歯に宿るという奇想だけでなく、物語展開としての構造も似てしまうというのは偶然とは言い難く、これでは川上さんが津原さんの作品からアイデアを盗用していると見なされても仕方ありません。今回の津原さんの告発文は、そのことを裏書きするものです。

本来これは作品内で語り手が津原さんの短篇に言及していたり、作品外で作者がオマージュやパロディであると公言していたりすれば、出来不出来は別にして創作としてまったく問題ないものです。けれども発表から津原さんの公式ホームページの掲示板における騒動をへて現在にいたるまで、作者である川上さんからはそのような表明はなく、したがってそれは川上さんがアイデア盗用をする書き手であることを示す作品でありつづけています。

わたしが以上の事実を知ったのは、2010年9月に刊行された尾崎翠の映画台本を原案とする津原さんの小説『琉璃玉の耳輪』を読んでその公式ホームページを訪れてからであり、よってそれまでアイデア盗用の可能性のあるものとしてその作品を読んだことはありません。わたしは過去に2度、共同通信の配信記事として担当していた文芸時評「文学の羅針盤」で川上さんの作品を取りあげています。ここにその該当部分を採録しておきます。

《二〇〇七年度の上半期と下半期の芥川賞受賞者がそれぞれ受賞後第一作を発表している。上半期の諏訪哲史は長編「りすん」(「群像」三月号)、下半期の川上未映子は短編「あなたたちの恋愛は瀕死」(「文學界」三月号)。
 残念ながら諏訪哲史「りすん」は、内容としては言葉に対する自意識という、この二十年でオーソドックスになった主題をうまく作品化した芥川賞受賞作『アサッテの人』の自己模倣に陥り、書き方としてはリアリズムの言葉の限界を意識しない、非リアリズム的な言葉のたれ流しで登場人物を作者の奴隷にしている。言葉に対する自意識がどこまでいっても作者自身のものから出ないので、どんな奔放な言葉も平板に響くのだ。
 一方の川上未映子「あなたたちー」は、女性としての自意識を追求する言葉という点ではこれまでの作品の延長線上にあるが、その自意識が相対化される男性の視点が新しく導き入れられているところが面白い。結果として、恋愛に憧れながらも踏み込めない自意識過剰な女性が、勇気を出して声をかけた男性に殴り倒されるというドタバタ喜劇に仕上がっている。ここでは自意識の暴走にまかせるような非リアリズム的な言葉の限界がよく意識されている。》(「文学の羅針盤」2008年2月)

《川上未映子の力作「ヘヴン」(「群像」8月号)もまた、物語の力を感じさせる長編だと言える。語り手は中学2年の「僕」で、ひたすら過酷ないじめに耐える日々が描かれる。主要な登場人物はおなじ教室で女子からのいじめを受ける「コジマ」だけで、クラスメートの目を盗んでやりとりする手紙と、たまに一緒に出かけて交わす言葉が作品を覆う「交通」のほぼすべてである。読者はそのいじめの日々の出口を求めるようにして読み進めることになる。
 作者はこれまでの言葉が言葉を呼ぶような書き方を止め、難解な言葉を使わずひらがなを多用し、できるかぎり「わかりやすい」言葉で書くことを目指している。その意図はいい。だがそれはあらかじめある小説の型をなぞり、結末の内容に作品の価値を委ねる消費物としての物語を書く結果になっている。物語の鍵となる「僕」の母や「コジマ」の父といった人物まで作者のあやつり人形に見え、結末を知っての再読、三読には堪えられない。辻原のように言葉の冒険の向こうに物語の力を見出すやり方もあるのではないか。》(「文学の羅針盤」2009年7月)

取りあげたのはその時点でそれに値すると感じたからですが、もしそのときすでに行われていた川上さんのコラムにおける盗作と小説におけるアイデア盗用を知っていたら、わたしはこうして取りあげることはしなかったでしょう。なぜならアイデア盗用をする書き手によるアイデア盗用の可能性のある作品を、その月における注目すべき作品として推薦する文学観をわたしがもっていないからです。

わたしは2010年4月から毎日新聞で文芸時評を担当していますが、さしあたりの措置として今後発表される川上未映子さんの作品について、以上に述べたわたしの文学観に照らして川上さんから適切な表明がなされないかぎり、時評の対象としないことをここに宣言します。

この宣言自体には弾劾の意図はありません。

わたしは別に、川上さんの文学観とわたしの文学観が一致することを求めているのではありません。わたしはわたしの文学観にしたがって文芸時評を書いており、時評の役割はよりすぐれた作品を生み出すためのものだと考えています。もちろん川上さんの作品がアイデア盗用をしていないものであり、かつすぐれたものであるとすれば時評でぜひ取りあげたいと思っています。

けれども現状では、アイデア盗用の可能性のある作品とそうでない作品の区別がつけられません。これまで「わたくし率 イン 歯ー、または世界」が掲載された伝統ある「早稲田文学」を含め、文芸誌にはアイデア盗用の可能性のある作品が積極的に掲載されることはないと考えてきましたが、どうやら状況はそうでもなくなりつつあるようです。

したがってわたしが川上さんの作品を時評の対象とするためには、アイデア盗用の可能性のある作品を読んでそこにアイデア盗用があるかないかを検証し、ないという意味でわたしの文学観に適うものであることを確認しなくてはなりません。残念ながらこの作業は、毎月ぎりぎりの日程で対象作品を読んでいるわたしの能力を越えています。

今回の盗作や盗用についてわたしとは異なった文学観をもたれている方には申し訳ありませんが、そういう事情で川上さんの作品を時評の対象から外さざるをえません。文芸誌に掲載されたすべての作品が文芸時評の対象であると考えておられる読者のために記しておきます。

くり返しますがこれは暫定的な措置であり、今後発表される作品でアイデア盗用の可能性がないということが明白になればすぐに撤回いたします。

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