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川上未映子さんの作品について [生活と意見]

一読者の指摘にはじまり、この数ヶ月にわたって津原泰水さんの公式ホームページ「aquapolis」の掲示板を主な舞台に議論が展開された、川上未映子さんの尾崎翠についてのコラム「尾崎翠 第九官界彷徨」における角秋勝治さんの「第七官界彷徨ー尾崎翠を探して」映画評からの盗作疑惑、および小説「わたくし率 イン 歯ー、または世界」における津原泰水さんの小説「黄昏抜歯」からのアイデア盗用疑惑ですが、アイデア盗用の被害者である津原さんが、状況証拠として第三者の固有名を含むかたちで川上未映子さんが津原さんのご著書『綺譚集』を読んでおられることを示唆する記事「宣告はつらい」を書かれました。

《これをユリイカ山本充は僕の目の前で、川上未映子に読むように勧めている。ましてや川上未映子はその前後に位置する『ペニス』と『ブラバン』を、おおやけに称賛している。「『綺譚集』だけ知りませんでした」は通らない。》(http://6300.teacup.com/osamun/bbs/t8/315

それを受けて、文芸評論家として表明しておくべきことを表明しておきたいと思います。

まずコラムにおける盗作疑惑ですが、

・川上未映子さんが「月刊songs」に掲載したコラムを加筆修正して2005年3月の日付で川上さんの公式ブログ「純粋非性批判」に転載したもの
http://www.mieko.jp/blog/2005/03/post.html

と、

・角秋勝治さんが2001年5月13日付「日本海新聞」に掲載した映画評をホームページ「尾崎翠フォーラム」に転載したもの
http://www.osaki-midori.gr.jp/_borders2/EIGA/3-EIGA/3-EIGA/HYORON.htm

を比較すればわかるように、川上さんは尾崎翠の小説「第七官界彷徨」の物語内容について誤った記述をしており、その記述が映画「第七官界彷徨ー尾崎翠を探して」内でアレンジされた小説「第七官界彷徨」について角秋さんが映画評で紹介されているものに語彙も内容も酷似しています。

これは明白な盗作であると同時に、尾崎翠の小説「第七官界彷徨」を読まずにそれを紹介している文章であり、わたしはこのような文章を原稿料が発生するものとして書いている書き手を文学者と見なす文学観をもっていません。ただし、この文章は川上さんが詩や小説を発表される以前のものであり、それ以降の文章がそのように書かれていない、盗用コラムは現在の川上さんとは別人のものである、と過去の文章についての謝罪あるいは釈明がなされれば、現在の川上さんにその文学観を適用することを覆すのに吝かではありません。

次に小説におけるアイデア盗用疑惑ですが、

・川上未映子さんが2007年に「早稲田文学」0号に発表されて、現在は講談社文庫に入っているもの

と、

・津原泰水さんが2002年に「小説現代」に発表されて改題の上2004年に刊行された短篇集『綺譚集』に収録され、現在は創元原推理文庫に入っているもの

の詳しい比較は津原さんご自身の承認を得ているものが、
http://wave.ap.teacup.com/radiodepart/
で読むことができます。

思考が脳ではなく歯に宿るという奇想だけでなく、物語展開としての構造も似てしまうというのは偶然とは言い難く、これでは川上さんが津原さんの作品からアイデアを盗用していると見なされても仕方ありません。今回の津原さんの告発文は、そのことを裏書きするものです。

本来これは作品内で語り手が津原さんの短篇に言及していたり、作品外で作者がオマージュやパロディであると公言していたりすれば、出来不出来は別にして創作としてまったく問題ないものです。けれども発表から津原さんの公式ホームページの掲示板における騒動をへて現在にいたるまで、作者である川上さんからはそのような表明はなく、したがってそれは川上さんがアイデア盗用をする書き手であることを示す作品でありつづけています。

わたしが以上の事実を知ったのは、2010年9月に刊行された尾崎翠の映画台本を原案とする津原さんの小説『琉璃玉の耳輪』を読んでその公式ホームページを訪れてからであり、よってそれまでアイデア盗用の可能性のあるものとしてその作品を読んだことはありません。わたしは過去に2度、共同通信の配信記事として担当していた文芸時評「文学の羅針盤」で川上さんの作品を取りあげています。ここにその該当部分を採録しておきます。

《二〇〇七年度の上半期と下半期の芥川賞受賞者がそれぞれ受賞後第一作を発表している。上半期の諏訪哲史は長編「りすん」(「群像」三月号)、下半期の川上未映子は短編「あなたたちの恋愛は瀕死」(「文學界」三月号)。
 残念ながら諏訪哲史「りすん」は、内容としては言葉に対する自意識という、この二十年でオーソドックスになった主題をうまく作品化した芥川賞受賞作『アサッテの人』の自己模倣に陥り、書き方としてはリアリズムの言葉の限界を意識しない、非リアリズム的な言葉のたれ流しで登場人物を作者の奴隷にしている。言葉に対する自意識がどこまでいっても作者自身のものから出ないので、どんな奔放な言葉も平板に響くのだ。
 一方の川上未映子「あなたたちー」は、女性としての自意識を追求する言葉という点ではこれまでの作品の延長線上にあるが、その自意識が相対化される男性の視点が新しく導き入れられているところが面白い。結果として、恋愛に憧れながらも踏み込めない自意識過剰な女性が、勇気を出して声をかけた男性に殴り倒されるというドタバタ喜劇に仕上がっている。ここでは自意識の暴走にまかせるような非リアリズム的な言葉の限界がよく意識されている。》(「文学の羅針盤」2008年2月)

《川上未映子の力作「ヘヴン」(「群像」8月号)もまた、物語の力を感じさせる長編だと言える。語り手は中学2年の「僕」で、ひたすら過酷ないじめに耐える日々が描かれる。主要な登場人物はおなじ教室で女子からのいじめを受ける「コジマ」だけで、クラスメートの目を盗んでやりとりする手紙と、たまに一緒に出かけて交わす言葉が作品を覆う「交通」のほぼすべてである。読者はそのいじめの日々の出口を求めるようにして読み進めることになる。
 作者はこれまでの言葉が言葉を呼ぶような書き方を止め、難解な言葉を使わずひらがなを多用し、できるかぎり「わかりやすい」言葉で書くことを目指している。その意図はいい。だがそれはあらかじめある小説の型をなぞり、結末の内容に作品の価値を委ねる消費物としての物語を書く結果になっている。物語の鍵となる「僕」の母や「コジマ」の父といった人物まで作者のあやつり人形に見え、結末を知っての再読、三読には堪えられない。辻原のように言葉の冒険の向こうに物語の力を見出すやり方もあるのではないか。》(「文学の羅針盤」2009年7月)

取りあげたのはその時点でそれに値すると感じたからですが、もしそのときすでに行われていた川上さんのコラムにおける盗作と小説におけるアイデア盗用を知っていたら、わたしはこうして取りあげることはしなかったでしょう。なぜならアイデア盗用をする書き手によるアイデア盗用の可能性のある作品を、その月における注目すべき作品として推薦する文学観をわたしがもっていないからです。

わたしは2010年4月から毎日新聞で文芸時評を担当していますが、さしあたりの措置として今後発表される川上未映子さんの作品について、以上に述べたわたしの文学観に照らして川上さんから適切な表明がなされないかぎり、時評の対象としないことをここに宣言します。

この宣言自体には弾劾の意図はありません。

わたしは別に、川上さんの文学観とわたしの文学観が一致することを求めているのではありません。わたしはわたしの文学観にしたがって文芸時評を書いており、時評の役割はよりすぐれた作品を生み出すためのものだと考えています。もちろん川上さんの作品がアイデア盗用をしていないものであり、かつすぐれたものであるとすれば時評でぜひ取りあげたいと思っています。

けれども現状では、アイデア盗用の可能性のある作品とそうでない作品の区別がつけられません。これまで「わたくし率 イン 歯ー、または世界」が掲載された伝統ある「早稲田文学」を含め、文芸誌にはアイデア盗用の可能性のある作品が積極的に掲載されることはないと考えてきましたが、どうやら状況はそうでもなくなりつつあるようです。

したがってわたしが川上さんの作品を時評の対象とするためには、アイデア盗用の可能性のある作品を読んでそこにアイデア盗用があるかないかを検証し、ないという意味でわたしの文学観に適うものであることを確認しなくてはなりません。残念ながらこの作業は、毎月ぎりぎりの日程で対象作品を読んでいるわたしの能力を越えています。

今回の盗作や盗用についてわたしとは異なった文学観をもたれている方には申し訳ありませんが、そういう事情で川上さんの作品を時評の対象から外さざるをえません。文芸誌に掲載されたすべての作品が文芸時評の対象であると考えておられる読者のために記しておきます。

くり返しますがこれは暫定的な措置であり、今後発表される作品でアイデア盗用の可能性がないということが明白になればすぐに撤回いたします。

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津原泰水さんから市川真人さんへの公開メッセージ [生活と意見]


 放置されたままのブログですが、放置しておけない問題に関して重要なメッセージが発信されたので、転記させていただきます。発信された場所は、小説家である津原泰水さんの公式ホームページ「aquapolice」の掲示板で、記事のアドレスは、http://6020.teacup.com/tsuhara/bbs/1181です。
 以下はわたしの文章ではなく、津原泰水さんから市川真人さんへの公開メッセージです。

 ***

 早稲田文学に関しましては、もし市川氏に御釈明の勇気あらば、第三者立合いのもとでの面会にやぶさかではない、とここに公言致します。
 氏からは、かつてお名刺を賜っておりますが、こういう呼掛けは、決して密室でおこなわれるべきではないと僕は考えます。我々がそんな真似をすれば、読者の文学不信の炎に油をそそぐようなものです。

 津原泰水が何者かによる恒常的、病的、犯罪的なネガティヴ・キャンペーンに晒され続け、そうして利を得る(と誤解しうる)存在が、論理的に導き出されるとはいえ、本来の対立軸は「川上未映子 vs 読者」です。僕や盗作盗用の発見者たちは、言論統制めいた黒い動きに巻き込まれた、文学愛好者に過ぎないのです。
 常々、この点を勘違いしないよう僕は気をつけております。むろん市川さんには最初から重々お分かりのことでしょう。
 これは巻き込まれた被害者から、その原因となった事象の運営責任者へのメッセージです。

 面会の際の話題は、一点ないし二点に絞り込みます。
・「黄昏抜歯」と「わたくし率~」の奇想の酷似に対して、いかなる御見解をお持ちか。
・もし似ていないと御結論なさるなら、あらゆる世人の目に明らかな、ここ数か月におよぶ、恒常的、病的、犯罪的なネガティヴ・キャンペーンは、津原泰水/津原やすみの不徳の致すところであるとお考えか。具体的にそれは何か。

 市川さんがこのBBSを読まれていること、僕はじつは知っております。
 よって本稿の黙殺は、逃走と目するものです。
 お返事はメールや電話でも構いませんが、世の文学愛好者と早稲田大学の学生のため、一部を公開する可能性をお含みください。あらかじめ許諾は求めます。

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ネイティブ富山弁アニメ [生活と意見]

たいへんめずらしい、ネイティブ富山弁アニメを見つけた。

それは富山県の黒部市にある(らしい。行ったことないけど、行ってみたい)グリーンカフェというお店の、ホームページのなかにあるのだが、富山に住む無骨な兄弟が、しゃれたグリーンカフェに入るに入れない、という状況を描いたドタバタコメディの連作である。

http://www.kurobe.net/greencafe/

お店の宣伝を兼ねているのだが、密かにおかしい。

しかしこのスピードの富山弁、富山に住んだことのある人以外にはわからないんじゃないだろうか。

ちなみに富山を舞台にしていることで知られる宮本輝『螢川』の富山弁は、あれはネイティブじゃないね。ネイティブの富山弁は、闇のなかに無数の蛍が乱舞するというような美しい情景とは無縁だ。たしかに郷土の言葉をもちいることで、非日常という雰囲気が出るのかもしれないけれど、それは道具としての富山弁で、富山弁そのものではない。

方言だからといって、言葉を道具にしちゃいけないよな。

標準語というのも国を単位にしたローカルな考え方で、見方によっては日本語は日本という地方で使われている方言にすぎないわけだから、標準語と方言のあいだで上下のヒエラルキーがあるわけではない。それを解する人々の母集団の大きさが異なるだけで、言語としては完全に対等である。

ある言語が魅力的なのは、その言語によって魅力的なものがたくさんつくられている場合である。

富山弁による表現が、たくさん出てくると面白いだろうなあ。


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喜多八膝栗毛に行ってきた [生活と意見]

落語家の柳家喜多八さん(http://www2.odn.ne.jp/~caf75600/)が、高座三十周年を記念して三夜連続の独演会「喜多八膝栗毛」を博品館劇場でやるというので、その初日に行ってきた。

ぼくは大学生になってから寄席に行くようになったのだけれど、喜多八さんの落語は、そのころからの大ファンである。

古典をあれだけ面白く聞かせてくれる人はいないし、芸人魂を感じさせてくれるいまどきめずらしい噺家である。

初日のゲストは春風亭小朝で、二日目は立川志の輔、最終日は柳家小三治という豪華な企画である。

喜多八さんは廓話の「五人廻し」と、新作の「籠釣瓶花街酔醒[かごつるべさとのえいざめ]」の第一夜分をやった。久しぶりの落語を堪能する。

パンフレットにあった本田久作という方の文章もおもしろかったし、ひどい雨ではあったけれど、よい晩でした。


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「ばんそうこう」をなんと呼ぶ? [生活と意見]

ヤフーのヘッドラインに出てたから、見た人が多いかもしれないけれど、「ばんそうこう」にも方言があるそうである。

http://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/katei/news/20060920ddm013100156000c.html
(MSN毎日インタラクティブの記事。しばらくしたらリンクが切れるでしょう)

まあそれだけなら「へえ」という程度の話なのだが、記事にある分布地図を見ていていささかショックなことがあった。なぜならその呼び名を聞けばどんぴしゃりで出身県を当てられるというところがたったひとつだけあって、それがぼくの生まれ育った富山なのだ。

なんでそんなことになっているのだろう?

富山県では、「ばんそうこう」を「キズバン」と呼ぶ。

たしかにそうだ。「キズバン」と口にすると、身体の奥底で眠っていた言葉がむくむくと動き出す感じがする。そう言っていましたよ、むかし。「キズバンちょうだい」って。

ぼくはもう東京に来て十年以上になるから、いまは「バンドエイド」という関東風の呼び方をしている。きっといつかどこかで入れ替わったものだろう。

でも、言葉というのはデジタルな情報のように、上書きされたら消えるという種類のものではない。だから「キズバン」という言葉もぼくのなかにちゃんと残っていて、その周囲には富山での十八年間の記憶がまつわりついている。

キズバン。キズバン。

頭のなかでくり返していると、なにか大事なことが思い出せそうな気がする。

もう失われてしまった大切ななにか。

思い出せないなあ。

そんなもの、なかったのかもしれない。

「もう失われてしまった大切ななにか」というのは、こうしていつも思い出せないということによって「もう失われてしまった大切ななにか」なのである。

たぶん本当に思い出してしまったら、あまりにつまらないことなのでショックを受けるからだろう。

よく言われることだが、人間にとって忘却というのは恩寵だ。

なぜなら、人間というのは忘れたいことを忘れておいて、それが大事なことだった気がするなどといって、あたかも自分の人生には大事なことがあったかのように錯覚して生きる、幸福な生き物である。

ぼくの記憶もあちこちに穴が空いて、かわりに「もう失われてしまった大切ななにか」が埋まっているが、そんなに思い出したくないひどいことばかりだったのだろうか。たとえば酒の席のこととか富山での十八年間とかね。

いかんな。田舎の話は感傷的になるか、それを避けようとするとシニカルになる。

とにかく、記事を見なければもう一生思い出すこともなかったかもしれない「キズバン」という言葉を思い出すことができて、ぼくは少し嬉しかったわけです。

やっぱり感傷的だな。寝よう。


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「それはホエーです」 [生活と意見]

うちは朝かならずプレーンヨーグルトを食べる。

いろいろなプレーンヨーグルトを買ってみたが、前から気になっているのはコープ(生協)のものである。

ふたをあけると「表面の水分はホエー(清乳)です」という言葉が目に飛び込んでくる。

ホエーですよ、ホエー。

「ホエー」と間抜けな音を頭のなかに響かせながら、その文字が書かれている内ぶたの下の方に目をやると、少し小さな文字で、

《ヨーグルトの表面に水分が出ることがありますが、これはホエー(清乳)と呼ばれる乳成分の一部です。品質に問題はありませんので、そのままお召し上がりください。
砂糖の添付はしておりません。》

と書いてある。そうですか。

やっぱり「ヨーグルトの表面に浮いてくるあの水みたいのはなんですか」と聞いてくるやつがよくいるんだろうか。たしかにあれはなんだろうと気になると言えば気になる。

しかしこういう「ホエー」表記があるのは、いまのところ僕が目にしたかぎりではコープのものだけである。だからそれほど聞いてくる人が多いとは思えない。じっさい僕は、それを知らないで三十年ほど生きてきて、なんの問題もなかった。

次に考えてしまうのは、「あれはなんですか」と聞いて「それはホエーです」と答えが返ってきたところで、人は納得するものなのだろうか、ということである。

少なくとも、僕には「ホエー」は「よくわからないもの」である。「清乳」でもまだよくわからない。

「よくわからない」ものについて聞いて「よくわからない」答えが返ってくる。毎朝プレーンヨーグルトのふたを開けると、そこで起きているのはそういう不条理な問答である。

それが問答無用で目に飛び込んでくる。

最後に「ホエー」の話題から、やや唐突に「砂糖」の話になるのもひっかかる。潔い断言なのだけれど、全体として潔い言い方でなにかをごまかしているようにも見える。

無理矢理話をまとめたというか。

今度、それを知らない人に無理矢理「それはホエーです」と教えてあげようと思う。


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複製技術時代の本 [生活と意見]


文化学院の学生から送ってもらった写真。

三島と太宰と安吾の特集で、太宰治では僕の本がピックアップされている。浜松町の駅ビルにある『ブックストア・談』だそうです。ありがたいねえ。

ちゃんと本屋で売ってるんだなあ、僕の本。

三冊目の本であるが、いまだに自分の本が売られている、ということのリアリティがない。

自分の書いた文章のコピーに値段がついて、存在しているということの意味がよくわからないのである。

これは未開人の感覚だな。

有名な話だと思うけれど、人類学者がある未開の集落を調査に行った。そうすると未開人の方も人類学者に興味をもつから、彼はいろいろと未開人にもちものを見せて一生懸命(ヨーロッパローカルの)近代文明のすばらしさを説明した。まあでもそれは、テレビ番組とテレビとビデオデッキの便利さを同時にわからせるようなものだから、ぜんぜん説明は通じず、感心もしてもらえなかった。ところがその人類学者がたまたまおなじ本を二冊もっていて、それを目にした未開人がはじめて驚いた表情を見せた。

ヨーロッパの学者さんにとって、そんなものはめずらしくもないし、なんでそんなに驚かれるのかもわからなかった。

しかし未開人の意見では、まったくおなじものがこの世に二つ以上存在することの必然性が理解できないという。そのときの様子は、文明に感心するというより、まるで悪魔の所行を見るかのようだった、というお話。

正確な出典を忘れてしまったので、脚色とか誤解があるかもしれないけれど、とにかく僕は好きだなあ、この感覚。

たとえば太陽が二つあったりね、自分がふたり以上いたりしたら困るわけでしょ。

もちろん人を困らせるようなことをたくらむのは、悪魔とかその手先とか、そういう悪い人たちである。だからまったくおなじ本をいくつもつくってしまう近代文明も、未開人にとっては悪魔の所行だということになる。おそらく二冊のおなじ本の存在に驚いた未開人は、近代文明の本質を一瞬で見抜いたのである。

それは、「オレのために世界をひとつ寄こせ」ということである。

近代文明というのはそういう主張をする人たちのためのもので、そういう欲望をもつ人たちによって成り立っているのである。

未開人の感覚では、世界はみんなのものだから、みんなのためのものが一つずつあればぜんぜん問題はない。まったくおなじものが二つある方がおかしい。

ところが近代文明では、みんな「オレのために世界をひとつ寄こせ」と言っている。だからおなじもののコピーがたくさん必要なのである。

そうやって僕たちは、文庫本で小説を手に入れ、CDで音楽を保持し、DVDで映画を管理して、世界をひとつ所有した気になっている。現代社会で演劇や話芸や絵画がだんだん廃れていくように見えるのは、その本質がコピーに向かないからだろう。

そう言えば、ファンタジーの世界で「オレに世界を寄こせ」と主張するのはみんな悪いやつばっかりだ。ロールプレイングゲームなんて、そういう悪い奴を倒しに行く話だらけだ。なんのことはない、あれはゲームをプレイしている自分のことなのだ。

すると近代文明は、やはり悪魔とかその手先の集団ということになる。まあそういうところに生きているわけです、僕たちは。

それで未開人の感覚を残している僕としては、たびたびコピーの存在意義がわからなくなって、自分の本を買ってみて確かめてみたくなる。本当に買えるということになると、少なくとも売られていることになにか意味があるということだけはわかるから。

実を言うと、最初の本は二度ほど自分で買ってみたことがある。ちゃんと買えたよ。

しかし自分で書いた文章のコピーを自分で買っている僕の姿は、未開人の目にはなにをしているところに見えるのだろう?


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読書会で『ユリシーズ』 [生活と意見]

久しぶりに、文化学院の学生が月に一度開いている読書会に参加した。

なんともう三十回目。足かけ四年になるはずである。

いちおう僕は創設時からのメンバーなのだが、いろいろと雑事にとりまぎれてとくに今年はあまり出られなかった。

ええ、歳をとると止むに止まれぬしがらみが増えてくるのですよ。

今回は二日前にYくんから連絡をもらって、ジョイスの『ユリシーズ』を取りあげると知った。

絶対に二日じゃ読み切れないよ!

学生時代に眺めてばかりいた記憶があるだけで、それから一度も精読していない自分が悪いのだが、とにかくその日は都合がつけられる日だったので、なんとか体裁をつくろって参加。

メンバーはYくんとMちゃんとOさんと僕の四人。

みんな今年の夏いっぱいかけてジョイスにつきあったらしい。

よいことである。

つきあいにくい人でも、グループのなかには居場所があったりするものである。

ジョイスさんは一見たいへん気むずかしくて、一対一ではとっつきにくいのであるが、誘い出してみんなで一緒に遊びに行ってみると、実はけっこうにこにこしている人である。

それぞれにこっそり微笑みかけてくれる。

その印象を語りあったわけである。

読書会後はもちろん飲み会。オダギリジョーの現状と今後について、親身な議論が展開された。


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モルモン教原理主義 [生活と意見]

TBSラジオ「ストリーム!」をPodcastというので聞く(http://tbs954.cocolog-nifty.com/st/)。

Podcastで聞けるのはその番組の「コラムの花道」というコーナーだが、毎週火曜はカリフォルニア州オークランド在住の映画評論家、町山智浩さんが出る。それがめっぽう面白いのである。

いささか過激な言い方をすると、21世紀の世界ではアメリカでも日本でもマスメディアの多くが大本営発表の傾向を強めているので、だから日本にいて入ってくるアメリカの情報というのは二重に検閲を受けている。アメリカの権力にとって都合のいい部分だけが、アメリカと軍事同盟を結んでいる日本の現状を波立たせないようにして入ってくるわけだ。

そんななか、1997年からアメリカに住んでいる町山さんは、そこから生きたアメリカの姿を届けてくれている。

今回はモルモン教原理主義者のお話。

アメリカ合衆国で19世紀前半に生まれたモルモン教は、もともと一夫多妻制だったのだけれど、19世紀末にそれを止めた。ところがそれがいやだといって原理主義化したモルモン教徒がいて、21世紀のいまでも地下組織的に一夫多妻制をつづけているそうだ。もちろんいやがったのは男の人たちで、だから男性に都合のよいコミュニティがあちこちにあることになる。

その手口がすごい。

モルモン教原理主義者の家で育てられた娘たちは、12歳かそこらで無理矢理結婚させられる。たくさん妻のいるおじさんとかに。まだ自我にもちゃんと目覚めないような年齢であるが、モルモン教原理主義者のもとでは女性たちはテレビも新聞も本も見ることができない。男性による完全な情報統制で、だから人権という考え方も知らないし、男女平等という発想もない。もちろん男女のあいだに恋愛というものがあることも知らない。

女性は完全に男性のもちもので、最近その大きなコミュニティの一つのリーダーが捕まったという。彼は父親から妻を相続していたんだそうな。

罪状はレイプとか人権侵害になるんだろうな。

あるいは、こういうのはアメリカにおけるキリスト教の原理主義化と平仄をあわせているのかもしれない。ネットをうろうろしていたら、ブッシュが大統領になる20世紀末からモルモン教にそういう動きがあったという記述も見つかった。

おのれの庇護を必要とする女性たちが何人もいることで、だれよりも強いという男性としての幻想を保つことができる。モルモン教原理主義者のやり口は、マッチョの国としてのアメリカの暗部を象徴している。

当然のことながら、現在では一夫多妻を維持するためにはモルモン教原理主義者の娘だけでは足りない。なのでモルモン教原理主義者はふつうの家庭に押し入って、若い娘に銃をつきつけて妻になることを迫り、拒否されると撃ち殺すという事件を起こしている。

自分たちとは違うやり方をしている人々のなかに入っていって、「おのれの庇護を必要とする女性」になるか、撃ち殺されるかの選択を迫る。つまり「おのれの庇護を必要とする」というあり方以外は認めない。

これってイラクに対するブッシュ政権の手口とおなじじゃないか。

そうするとアメリカの「庇護を必要とする」ところから出発している敗戦後の日本は、男性によって情報統制されて真実を教えてもらえないモルモン教原理主義者の女性みたいなものだってことか?

なんでアメリカ産牛肉の輸入は再開されちまったんだ?

まああいい。

それにしてもアメリカという国は広い。


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気まぐれ [生活と意見]

ブログの表題を変えてみました。

とくに深い意味はありませんがね。

ええ、気分転換ですよ。


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